→ Marimba Ensemble “Kion (木音)”

演奏で辿るXylophone、Marimbaの歴史 ② 平岡養一,Paul Creston,ラクーア音楽伝道,Robert Kurka

日本のシロフォン/マリンバ 発展のルーツ 平岡養一 (Yoichi Hiraoka)

Enescu / Rumanian Rhapsody ルーマニア狂詩曲

平岡養一 (Yoichi Hiraoka)1907年8月16日 – 1981年7月13日 (ウィキペディア Wikipedia より)

慶應義塾大学経済学部卒業。
1927年5月、帝国ホテルにて最初のリサイタルを開催。1929年には当時檜舞台とされていた日本青年館でリサイタルを開催し、成功を収める。
1930年6月、父に促されアメリカ合衆国へ留学。レコード録音で稼いだ片道ぶんの旅費にあたる1000円のみを所持しての旅立ちだった。9月に受けたNBCのオーディションで、80人の中から選ばれ合格。翌年、15分間のラジオ番組への出演が決定。この番組は、放送回数が4000回に及び、「アメリカ全土の少年少女は、ヨーイチ・ヒラオカの木琴で目を覚ます」と言われた。戦時中はNHKを通して日本国内でも放送された。

1936年12月、ニューヨークのタウンホールにて独演会を開催。演奏は成功を収め、ニューヨーク・タイムズも絶賛した。この成功を受けて、相手の両親の許可を得ることができ、1937年3月に結婚。1942年6月、戦争のため日本に帰国。ビクターと契約しレコードを発表すると、日本でも平岡の存在が知られるようになった。また、戦時中から国内を演奏活動して巡り、1963年までに2000回を超える演奏会を行った。

20年後の1962年11月、ニューヨーク・フィルハーモニーの独演者としてカーネギー・ホールへ日本人として初の出演。翌年、永住権を取得し家族と共にカリフォルニア州に移住。5年後には市民権を獲得。日本とアメリカを行き来しながら精力的に演奏活動を行った。

1978年、胃癌により胃を全摘出。11月、勲四等瑞宝章を受章。1981年、73歳で生涯を終えた平岡のモットーは「幸福と成功は努力して得ねばならぬ」であった。

平岡養一 3つの ニューヨーク リサイタルの New York Times 批評

1936年12月22日 ニューヨークリサイタル

1936年12月22日 ニューヨークリサイタル

  • 3つのヘンデルの作品
  • バッハ/フルートソナタ 第一番
  • ハイドン/メヌエット
  • ベートーヴェン/クロイツェルソナタよりアンダンテと変奏、プレスト
  • モーツァルト/アイネクライネナハトムジーク

「平岡養一による比類なきリサイタル。才能ある日本の木琴奏者がタウン ホールの聴衆に素晴らしい演奏を聴かせた」

以下、本文。
〈昨晩タウン ホールで演奏会を開いた平岡養一o彼のように大変な才能に恵まれた音楽家が、自分 自身の表現媒体としてこの楽器を選んだことは、奇妙なことのように思える。もし、彼がこのように制限のある「木琴」という楽器ではなく、もつと自由が利く、そして大衆に人気がある楽器を選んでいたとすれば、どうだろう。彼の類希なるセンス、溢れんばかりのイマジネーンョン、特別な演奏の才能をもってすれば、もつと簡単に第一線に立てたはずだo

彼がII、ュージックホールの見せ物レヴェルの楽器である木琴の、粗雑ともいえる音を使って、どうして素晴らしい演奏を生み出せるのかよくわからない。しかし、この若い日本のアーティストは、ヘンデルの曲の少しのフレーズを演奏するだけで、そのことを決定的に教えてくれた。なぜなら、彼の 音は、セゴヴィアのギターのように、繊細で絶妙なニュアンスをもっているのだ。そしてメロディー ラインの素晴らしさ、フレーズの感覚、ディテールの完壁さ。このような演奏ができる人は、今日の 音楽家の中でも数少ない。
彼の名人芸を考えた時、注目に値するのは、実はたった八年前に木琴を始めたばかりであるという事実だ。
当然のことであるが、彼の類希なる才能をもってすれば、この楽器のレパートリーの少なさを、不利だと感じていただろう。だから、彼は、自身の目的にかなう、ヴァイオリンやフルートやハープシコード、そして声楽のために書かれた曲を編曲した。昨夜の彼の選曲の全ては、うまく編曲されており、それぞれの分野においてすばらしい技術を披露した。

プログラムは、三つのヘンデルの作品に始まり、バッハの『フルート・ソナタ』の第一番。そして、第一部は、 ハイドンの『メヌエット』で終わった。次は、ベートーヴェンの『クロイツエル・ソナタ』のアンダンテと変奏、そして最終楽章のプレスト。素晴らしいフィルハーモニック・シンフォニー・ストリング・クァルテットと共に、 モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』、
そして、山田、バッツィーニ、シューベルト、サラサーテなど様々な楽曲を演奏した。
ピアノ伴奏のウラディーミル・ブレナーは、流暢で造詣の深い演奏をした。ここに、誰も想像しなかったような本物の音楽のタべがあった。
(訳文は通崎睦著「木琴デイズ」講談社 から転載させていただきました。)

1937年11月25日 ニューヨークリサイタル

1937年11月25日 ニューヨークリサイタル
  • ヘンデル/ソナタイ長調よりアダージョとアレグロ
  • グルック/ガヴォット
  • ラモー/メヌエットとタンブーラン(クライスラー編曲)
  • ベートーヴェン/ コントルダンス
  • ハイドン
  • ダカン
  • モーツァルト
  • バッハ/ヴァイオリン協奏曲 ホ長調
  • 日本古謡/越後獅子
  • リスト/ハンガリア狂詩曲 第二番

平岡養一は、昨晩タウン・ホールにて、 一見表現の幅がせまいように思える楽器「木琴」 でリサイタルを行い、素晴らしい芸術性をもって演奏した。
彼のタッチは、とてもデリケートであり、また圧倒的にすばらしいスタイルをもち、大変絶妙な音色とニュアンスの表現力がある。それによって、木琴を、最も気品ある音色の楽器として奏でた。
アメリカに住む教養ある日本人の平岡氏は、昨シーズン、つまりメトロポリタン・オペラが開幕した夜、ニューョーク・デビユーを果たした。しかし、メトロポリタンと競合したため、その時の演奏は、さらに注目されるはずだったのに、わずかな見識のある人たちの間でしか注目されなかった。そして、彼は賢明なことに、今回もう一度リサイタルを開催した。

演奏会が始まった瞬間から、彼の音楽家としての豊かな才能は明らかになった。彼の演奏している楽器が木琴であるということは、二の次なのである。彼は、彼の血の中に、そして手首に指にと、音 楽を宿している。彼は、楽曲そのものから解釈できるだけでなく、自分の身体そのものでどのように理解するかがわかっていた。だから、彼は、ユーモアと威厳を持って演奏することができた。
彼には、視覚的にも引きつけられる。身体全体が演奏の一部となっているのだ。彼は、小さくて機 敏な身体で、常に飛びながら演奏する。彼の動きは気品のある十八世紀のダンスのようで、決して邪魔にはならなかった。というのも、彼の動きと曲がよくあっていたからだ。
演奏曲の大部分はクラシックである。 ヘンデル『ソナタイ長調よりアダージョとアレグロ』から始まりグルックの『ガォット』では、厳粛な美しさが趣味よく伝えられた。そして、ラモーの『メヌエツトとタンブーラン』(クライスラー編曲)は、貴族趣味の音楽のエッセンスをうまく捉えており、この曲が演奏会のハイライトのーつであった。そしてベートーヴェンの『コントルダンス』で第一部 が締めくくられた。

第二部では、平岡の編曲によるハイドン、ダカン、モーツァルト(編曲協力【L・ヴァインマン)が演奏された。また、平岡はフィル・シム弦楽四重奏団とバッハの『ヴァイオリン協奏曲ホ長調』(巧みなアレンジが誰の手によるのかは記されていない)を共演した。彼の解釈には、曲線美とバッハの意図する雰囲気があった。木琴という楽器は、豊かな音色と表現のインパクトを持っているヴァイオリンの真似をする必要はない。平岡は、そうせずとも、聴衆にそれが何の楽器のために書かれた曲であるかを忘れさせるような演奏をした。

プログラムは、日本の伝統的な唄『越後獅子』、そしてハウザー、クライスラー、リストの作品で終わった。リスト『ハンガリア狂詩曲第二番』は、まさに木琴の妙技であった。また、ピアノのウラディーミル・ブレナーの伴奏は、称賛に値するものであった。多くの日本人を含む観客は、当然のことながら熱烈に平岡の演奏を受け止めた。
(訳文は通崎睦著「木琴デイズ」講談社 から転載させていただきました。)

1962年11月28日 ニューヨーク [カーネギーホール] リサイタル

1962年11月28日 ニューヨーク
[カーネギーホール] リサイタル
  • モーツァルト/アイネクライネナハトムジーク
  • 日本古謡/お江戸日本橋、かっぽれ、平城山、山寺の和尚さん、出船
  • ラモー
  • シューベルト
  • ボッケリーニ
  • ワグナー
  • ファリャ

カーネギー・リサイタル・ハフルでの昨夜のコンサートは感傷的であり、音楽的な機会でもありました。
(中略)
彼のプログラムには、彼が以前にここで演奏した多くの作品、木琴のためのオリジナルの文学がないので彼が自分でアレンジした作品が含まれていました。

彼は、過去に賞賛されたスキルや感性をまったく失っていませんでした。彼は派手な選手ではありませが、 彼にはかなりの妙技があり、とても上品な人です。

Phil-Sym String Quartetで
彼はモーツァルトの「Eine kleirie Nachtmusik」の楽しい演奏をしました」
彼は繊細さとトーンの美しいグラデーションで表現し、
それを通して、はつらつとしたリズムがありました。

3人のグループ。彼はサウル・グッドマンと演奏しました。
フィルハーモニー管弦楽団;オルガン奏者のミルトン・クラウスとピアニストのレオ・ルソットは、雰囲気のある作品とダンスの作品の両方で素晴らしい刺激を与えました。
他のアイテムは、ラモー、シューベルト、B・オッケリーニ、ワーグナー、ファラの作品のアレンジメントでした。

1930年代にアメリカで出版された 平岡養一氏の Xylophone曲集と「序文」

序文:
音楽愛好家やプレイヤー自身の間でさえも、木琴に対する広範な偏見があります。それは、木琴が 歌うことができない、 ボードビルのような喜劇的パフォーマンス行為における楽器であり、歌うことができない楽器という認識があるからです。しかし、それは不正確であって、人々が木琴の可能性を理解したときに証明されるでしょう。シロフォンは音楽的な演奏をすることができないと一般的に思われ差別されていますが、本当は素晴らしい音楽を奏でられる楽器なのです。
いい演奏をするシロフォン奏者がいないことが大きな欠点で、上記の様な評価を受けています。
木琴での本当に美しい音楽を演奏する方法を十分な数の楽器奏者が知っていれば、偏見は消え、新しい木琴文学の発展が促進されると私は信じています。

木琴が歌えることを人々に証明しなければなりません。私はそれができることを知っています。私たちがリズムと陰影を一生懸命忠実に演奏するならば、それらの一見活気のない木のブロックは美しい音楽を生み出すでしょう。

これを行うには、木琴を愛さなければなりません。あなたは演奏しながら心の中で歌うのです。あなたはあなた自身の表現をあなたの演奏に入れるための努力をする必要はありません。ただ音楽に忠実に – すべての表記法、リズム、ピアニシモス、フォルティッシモス、クレッシェンド、ディミヌエンドを再現してください。
あなたがその楽譜に書いてある通りに素直に演奏していけば自然と音楽的な演奏となるのです、そしてあなた自身の個性はあなたの演奏に現われるでしょう。

多くの場合、最大の過ちは、音楽表現に自分の表現を優先する奏者によって行われています。これを修正するために、私たちは楽譜に書いてあるリズム、陰影を注意深く受け止めるべきです。
奏者が上達し良い演奏を提供することで音楽界に於いてコンサート楽器として認められ、木琴がその正当な場所を得ることができるのです。

Yoichi Hiraoka

Rossotto Concertino for Xylophone 木琴:平岡養一(Yoichi Hiraoka)晩年の演奏


第一楽章 1st Mov.


第二楽章 2nd Mov.


第三楽章 3rd Mov.

1940年に作曲された Paul Creston (クレストン) / Concertino for Marimba and Orchestra(女性指揮者 Frederique Petrides の委嘱による)

Programme NotePaul Creston Concertino for Marimba (1940)Composer Note:

This work, which was commissioned by Frederique Petrides, conductor of the Orchestrette Classique, and dedicated to her, was completed in March, 1940. It is in three movements and is designed to demonstrate the capabilities of the marimba as a solo instrument with orchestral accompaniment.

The first movement, marked “Vigorous”, is based on two main themes, a strongly rhythmic one and a lyric one, both of which are announced in the orchestral introduction. The development of these themes occurs mainly in the solo part, and within the 3/4 meter are incorporated various rhythmic patterns.

The second movement, marked “Calm”, consists of an introductory theme first presented by solo flute, immediately followed by the main theme (in chordal structure) played by the marimba with four mallets. The general mood of tranquility is retained throughout, except for a minor climax developed toward the middle of the movement.

The last movement, marked ”Lively”, is a combination scherzo and finale, in 6/8 time. Rhythmic variety is the chief objective of this movement, the lyric and dramatic elements are interspersed throughout. (Paul Creston )

There are no isolated cadenzas to reveal the virtuosity of the soloist, as the composition as a whole affords numerous opportunities to display this phase.

マリンバ日本初上陸 ラクーア音楽伝道 1950年(昭和25年)

詳細→ラクーア音楽伝道の旅路

Robert Kurka 作曲 Concerto for Marimba and Orchestra,Op. 34 (1957年)

Robert Kurka(1921-1957)はDarius Milhaudにも学んだアメリカの作曲家。若くして白血病のために亡くなった。この協奏曲の演奏は没後2年経った1959年11月11日、Richard Korn 指揮 女性マリンビストVida Chenoweth氏によって行われた。

佐々木達夫氏 サンディエゴ交響楽団の演奏→ Library ページ

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